人を大切にする日本の道徳で働く。心でつながる仲間募集。


 こんばんは。有限会社THSの鈴木です。(草津社員旅行、西の河原にて)

最近、休みの日もつい原稿を書き続けてしまいます。書きながら、自分が大切にしている「道徳」とは何かを、改めて言葉にしてみたくなりました。
 
よく知られているように、学校教育で道徳を正式教科として扱う国は多くありません。日本と韓国(日本の枠組みを参考に整備されたと言われます)が代表例で、他の地域では宗教教育や公民・市民教育がその役割を担います。ただしそこで扱われるのは「社会生活で迷惑をかけない」などの規範が中心で、日本の道徳のように「よりよく生きるとは何か」「人としてどうあるべきか」まで踏み込む設計は珍しい——これが日本の道徳教育のユニークさだと感じています。
 
僕自身、道徳の授業を「良いことをしましょう」と習う時間だと軽く見ていた時期がありました。けれど、社会に出て経営を任され、現場で人と向き合う日々の中で、教科書の言葉より“当たり前の実践”の重さを痛感しました。たとえば、朝いちの挨拶、約束の5分前行動、気づいたゴミを黙って拾う——どれも子どもでも言えることですが、忙しさや利害が絡むほど実行が難しくなる。ここに「道徳=ルール以上のもの」という本質があります。
 
印象に残っている出来事があります。新しく入った20代のスタッフが、最初の数週間は仕事に精一杯で周りが見えなくなっていました。そこで「毎朝、最初の5分はデスクと道具の手入れをしよう。次の5分はチームの誰かに『今日はこれを手伝えるよ』と声をかけよう」と約束しました。たった10分の“習慣”ですが、1か月後、彼の仕事ぶりは見違えるほど安定し、現場の雰囲気まで柔らかくなりました。技術的な指導を増やしたわけではありません。行動の“根”を整えただけで、成果の“枝葉”が自然に広がったのです。
 
道徳が宗教と違うのは、「信じる教義」ではなく「毎日の選択」に宿る点だと思います。誰も見ていない時にどう振る舞うか。自分の都合と相手の都合がぶつかった時、どんな順番で物事を考えるか。こうした“心の使い方”は、知識として理解するだけでは身につかず、繰り返しの実践でしか育ちません。
 
世界が複雑さを増し、AIや自動化が広がるほど、正解が一つに定まらない場面が増えます。スピードや効率だけでは判断しきれないグレーゾーンで、最後に頼れるのは「人としてどう在るか」というコンパスです。日本の道徳教育が世界から関心を持たれるのは、まさにこの“コンパス”を言語化し、日常の中で育てる点にあります。
 
経営の現場でも同じです。制度やマニュアルを整えることは大事ですが、組織を動かすのは結局、人の心です。僕たちの会社では、「環境整備(働きやすい状態に整え、備えること)」を文化として続けています。キーボードの隙間を綿棒で丁寧に掃除する、養生テープの端を折って次の人が剥がしやすくする——小さな配慮の積み重ねは、仕事の質だけでなく、人間関係の質まで変えていきます。「目の前の1つを丁寧に」が習慣化したチームは、いざという時に驚くほど強い。これは道徳の教科書に書いてあったことの“実証”だと感じています。
 
もちろん、日本の道徳教育が完璧だと言いたいわけではありません。形式的に流れてしまう授業もあるでしょう。大切なのは、教室で学んだことを社会で更新し続けること。僕ら大人が、職場や地域で“背中を見せる”ことです。子どもは言われた通りには動かないけれど、見た通りには動く——これは大人同士でも全く同じ。リーダーが先に挨拶をする。先に謝る。先にありがとうを言う。小さな先回りの連続が、組織の空気を静かに変えていきます。
 
道徳は、堅苦しい倫理の授業ではなく、「毎日を少し良くする技術」です。宗教の有無に関わらず、国や文化を越えて通用する“共通語”。だからこそ、僕は日本で育ってきたこの学びを誇りに思い、仕事の現場でアップデートし続けたい。今日もまた、明日の自分が少しだけ良い選択をできるように。
 
ここまで読んでくださったあなたへ。もし職場やチームで行動の“根”を整える取り組みに興味があれば、一緒に小さな実験から始めませんか。道徳は、語るより、やってみるのが一番早い。明日の朝、いつもより少し早く「おはよう」を言ってみる。そこから世界は、静かに変わります。

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