子どもでも言えることを、大人が実践できない理由(後編)

 



こんばんは、THSの鈴木です。

前回の記事で、「子どもでも言えることを、大人が実践できない理由」について触れましたが、今回はその続きをお話したいと思います。

世界にはダボス会議という、世界の富裕層や億万長者が集まる場があります。そこに集まる人たちは、世界のトップレベルで富を得た人々ばかりです。しかし興味深いことに、彼らは富を極めてもなお「社会のために何か良いことをしたい」という強い願望を持っているのです。多くの人がNPOやNGOに寄付をしたり、慈善活動を積極的に行ったりします。

一方で、そんな善意の行動が必ずしも期待通りの結果をもたらすわけではありません。何千何億という大金が動けば利権や嫉妬が生じ、せっかくの良い行動がかえって逆効果になってしまうこともあります。そう考えると、「良いことをしたい」という純粋な気持ちですら、見方を変えれば利己的であり、本当に「良いこと」を行うのは実は難しいものなのかもしれません。

現代の政治や社会のリーダーにも、本来持っているべき道徳観が欠けていると感じることが多々あります。日本人は昔から、思いやりや礼儀正しさといった道徳的価値観を大切にしてきました。しかし最近のニュースを見ていると、リーダーとして社会の模範となるべき立場の人々が、その価値観を十分に実践できているのか疑問に感じる場面が少なくありません。

未来には「シンギュラリティ(技術的特異点)」が訪れ、AIやロボットが多くの人間の仕事を代替する時代がやってきます。それによって人々はより多くの自由な時間を得る一方、働くことの意味や生きる目的を根本的に見つめ直す機会が増えるでしょう。「人生とは何か?」「幸せとは何か?」という本質的な問いが、これまで以上に重要になるのです。

歴史上、最も栄華を極めた豊臣秀吉は、「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」と詠みました。このように、自分の生き方や人生の意味について深く考える境地に至ることは、かつてはごく限られた人たちだけでした。しかしこれからは、多くの人が余裕を持って「本当にこの生き方でよいのだろうか?」と問い直すようになるのではないでしょうか。

そのような時代に特に必要になるのが、「黄金律」、つまり「人としてどうあるべきか」という道徳観です。道徳とは決して堅苦しいものではなく、「人が幸せに生きるためのヒント」と言えます。ただ頭で理解するだけではなく、心から納得し、それを実践できるかどうかが本当に重要です。

あのスティーブ・ジョブズも、亡くなる数ヶ月前、京都の碧雲荘で「事業で成功したが、本当に大切なことを忘れていた」と語っています。いつの時代も、成功や富だけでなく、「人としてどう生きるべきか」を問い続けることが本当の意味で豊かな人生を築く鍵なのだと思います。

僕自身も、これからさらに深く道徳や人間としてのあり方を探求していきたいと考えています。

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